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代々畳屋ではありません。この件に付きましては「お店のプロフィール」で、ふれていますが、もう少し詳しく説明しておきましょう。「長いです」
1974年 12月1日AM2時頃生まれ いて座 寅年 A型 金星人十(細木数子占い) 四柱推命 火+

摂津市正雀3丁目の文化住宅2階で幼少期を過ごす、近くに銭湯やパン屋、駄菓子屋、プラモデル屋「正雀模型、アフロヘアーで有名な店主」小さな電気屋さん、その当時は地域に密着した個人商店がたくさんありました。

銭湯に行く時、水中メガネや水鉄砲、曲がるストロー「潜って息をするために使用」などを隠し持ち、番台のおばちゃんに怒られてました。

父は土木建築業、母はその当時 専業主婦でした。毎日、前後不覚になるまで酒を飲んで帰る父、母親は本当に大変だったと思います。

近所には兄貴と同期「1970年生まれ」ぐらいの子供が多く、私もその中に交じって遊んでいました。乗り物が大好きで、三輪車や足でペダルをこぐ小さい車に乗って、近所を散策するのが好きでした。

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幼稚園は「摂津幼稚園(さくら組)」小学校は「味舌東(ましたひがし)小学校」、引っ越しに伴い1年生の夏に「摂津小学校」に転校しました。

父親は宮崎県日向市出身、母親は鹿児島県南大隅町大根占出身。

正月や夏休みに田舎に帰るのが楽しみでした。親戚が多いので「お年玉が沢山もらえる」
お年玉は、兄貴とこっそりオモチャ屋さんに行き、回収される前に使い込んでました。

今、娘が2人いてるのですが、私と同じようなお年玉の使い方をされたら、許せるのでしょうか?許すしかないのか...

九州は自然が多くて、大阪とは時間の流れが全然違います、のんびりと仕事をして暮らせるなら、田舎暮らしを楽しみたいなぁ と、帰るたびに思います。

小学生の時、宿題をしない、忘れ物は多い、理科、図工、体育しか興味がありませんでした。

廊下に立たされることも多かったですし、4年生の時、あまりにも忘れ物が多い事と、宿題をやらないので、3年生に落第させると言われました、そんな時にタイミング良く転校生がやってきて、私に輪をかけた忘れ物王の降臨により、落第はその転校生がすることになりました「もちろんただの見せしめでしたが..」その転校生は今も私の友人です「現在は京都府城陽在住」類は友を呼ぶ。

摂津第一中学校でバスケットボール部に入部、厳しい上下関係を学びました、本当に厳しいクラブ活動で、家に帰って1時間ほどへたり込んでからでないと、ご飯を食べれませんでした。

練習中、水を飲んではいけないし、持ってきたお茶は全部先輩に飲まれ、今でいう熱中症になりながら練習をしていました。私は身長が140程度しかなかったので、体格的にも相当不利だったと思います。

最初は21名程居た同期の部員も3年の時には8名になっていました、おかげで不屈の根性だけは身に付きました。

相変わらず勉強は全くしないまま、友達の家に行って勉強を教えて貰うと言って、遊びに行ってました、クラブ活動が休みの日は、中間テスト期末テストの、テスト勉強期間しかなかったのです、勉強なんてせずに遊んで当然ですよね!

あまりにも勉強をしなかった事がたたり、中学生なのに「公文式」に通わされ、小学生に交じって足算・引き算・掛け算・割り算・少数・分数を習う。

高校進学は絶望的と言われましたが、柴島高校の試験を受けて、何を評価されたのか合格☆

高校では硬式テニス部に入部、何故バスケじゃないのか?もうあんなにしんどい事をしたくなかったし、膝に故障もあったので、自分の体を労わりたかった、整骨院に通い治療にも専念しました。

高校のクラブはお遊びのような感じだった、練習内容の割には上下関係や派閥みたいなものばかりが目立って、ちっとも充実しない、私は3年になったら下らないことにこだわる先輩にはなるまいと、心に誓った。3年になり副部長になった、同年代は2人、だから副部長。硬式テニス部は低迷を極めたが、後輩には理不尽な仕打ちはしなかった。基本は厳しく、練習は楽しく、仲間を大切に絆を深める。

高校でも勉強は最低ラインをキープし続けた、就職活動の時、私は大工になりたいと思った、理由は自分で好きなようにマイホームを建てられると、思ったからだ。

住友林業の採用試験と面接を受けた、学科試験はズタズタだったらしい、しかし高校は無遅刻無欠席だったので、採用するつもりだったらしいが、面接でいらんことを言ったのか、不採用になりました。

次はタイル屋さんに行くことになった、先生曰く「結構儲かる仕事や!とのこと」まあ、タイル屋でも自分の家のタイルを貼れるからいいか!と思っていたら、採用が決まった。

高校生のとき、私は今でも続いている趣味「バイク」に出会った。高1の誕生日が来たらすぐに原付免許を取りに行った「本当はダメだが、兄貴が悪知恵を入れた」部活をやっていたのでアルバイトはしていない、社会人になっていた兄貴がローンを組んでバイクを買ってくれた。私は幼い時からずっと無口な人間だった、自分が喋るのがめんどくさかった、だけど人の輪の中にいるのは好きだった。

バイクに乗り始めて 何が変わったのか?「自分」を表現するようになった。

ホンダの「CRM」というオフロードバイクでした、兄貴も250ccのバイクに乗っていたので、ツーリングにもよく行ったし、淀川の河川敷でも走っていた、高3の時は少しアルバイトもしたので、草レースにも出た。

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タイル屋での仕事は、バブル崩壊後の悲惨な状態、親方はバブルの時を思い返すばかりで、仕事は激減でした。こんなの自分の居場所じゃないと思い、タイル屋を辞めて高校の先生に再就職先を探してもらった、「運送業ならある」と言われ、幼いころトラック野郎に憧れていた時期もあったので、就職することに決めた。

運輸業の朝は早かった、私が任された配達先は大阪市中央区や浪速区、松屋町や心斎橋・日本橋・難波・千日前など、守口市の集配センターから、朝6時前ぐらいから積み込みをして配達に出た。基本給は五万円で、後は歩合制でした。仕事が終わるのは9時前後、それからご飯を食べに行き、たまに飲みに誘われる「私はお酒全然飲めません」

運送業でも、納得のいかない事が多かった、真面目で正直な人間が馬鹿を見るような会社だった、ゴマを擦って楽して稼げる仕事を班長にあてがってもらう人もいた、何の欲もなく、只あてがわれた仕事だけをこなす人もいた、みんなの為に気持ち良く働ける職場を作ろうとする人が3人程しかいない、当然その3人は全体の事を考えて、色々な事を提案し実行しようとしているのに、「めんどくさい事ばかり言ってる」と言わんばかりにしかめっ面を決め込む、挙句の果てには「そんな事をわざわざやって、ありがとうって言って欲しいんか!」と、捨て台詞を吐く始末。

私は色々と葛藤もあって、夜も眠れないこともあったが、人が嫌がる仕事を徹底的にやり上げる決意を決めました、何一つ文句を言えない仕事をしてやる!実力でいい仕事を取ってやる、22歳で大型免許も飛び込み試験で受け、3回目で合格した。

この職場では、同年代で大型トラックに乗っている人はいなかった、月給も3本の指に入るほど貰っていた、人を敬う心と、感謝の気持ちだけは持ち続けた、でも少し生意気だったと思う。

会社の寮で一人暮らしをしていたこの頃が、一番趣味を楽しめた。アコースティックギターを買って、友達に教えてもらいながら、長淵 剛の弾き語りをやっていた、仕事を終え10時頃からボーリングに行き「マイボール、マイシューズ」そのあとカラオケボックス、朝早いのに平気だった。バス釣りの道具も一式揃えて、釣りにも行った「私は食べれる魚を釣る方が面白いと思う」スノーボードに行きたいから、ホンダのCRVを新車で購入、岐阜県や兵庫の鉢北・東鉢などに日帰りで行っていた「仕事も運転手、遊びも運転手」バイクも2台乗り換えた、ツーリングやレースなども楽しんだし、バイク用のウエアーなどもフル装備で、独身社会人ならではのリッチなバイクライフを楽しめた。
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私は幼いころから今まで、必ず「いい人」に助けられてきた、文化住宅に住んでいた時は、二軒隣のおばちゃんが、自分の子供のように面倒を見てくれた、父親は毎晩酒を浴びるほど飲み、仕事の愚痴をわめき散らしていた、本当に迷惑な人間だったと思う。おばちゃんはオモチャを買ってくれたり、遊園地に連れて行ってくれたり、我が子のように可愛がってくれた。母親には「安いものを選びなさい」と、言われていたので、不本意でしたが、安いものしか欲しがらなかった、でも買ってくれるので嬉しかった。お寿司屋に行く時は、おばちゃんが「あんたの好きなのをたのみ!」と言われるが、カッパ巻と、おしんこ巻、バッテラを安いから注文していた、本当はバッテラは好きじゃなかった。おばちゃんは「あんた子供やのにバッテラが好きなん!珍しい子やな~」と関心していた。

文化住宅の1階で、金魚を大事に育てている人がいた、玄関先に水槽を置いていたので、たまに見物していた。兄貴がおやつのカステラを持って1階に降りてきた、大きく成長した金魚だったので「20センチぐらい」おやつをあげようと思った、最初はカステラのカスを入れて食べるのを見ていた、そのうちカステラのかけらを入れ始めた、カステラが水分を含み下に沈んでいくのが面白くなってきた、最後らへんは かなり大きなサイズを水槽に入れて、カステラも無くなり、楽しかったからまた明日来ようと思って、そのまま公園に遊びに行った。次の日、なぜか母親に怒られた、まだ4歳ぐらいだったので意味が分かっていなかった、兄貴と一緒に丸坊主にされることになった、金魚がカステラの油で全部死んでしまった、私は子供ながらに丸坊主になるのが本当に嫌だった、でも今考えたら よく丸坊主になって謝っただけで済んだな、と思う。兄貴は8歳だったのに何をしているんだ!

父親の人生は「酒」母親は「我が子」が心の支えだった、物心つき始めた頃から高校卒業まで、しらふ の親父を見たことが無かった、家に親父が帰ってくるのが本当に嫌だった、小4の時 私は のいろうぜ に、なっていたらしい「自分では気づいていなかった」ご飯を食べたらすぐに二階に上がった「引っ越した家は2階建ての借家でした」
仕事の話を家で酔いに任せて喋りまくる、「ほとんどが愚痴」ほぼ毎日母親と口論になる、子供にまで仕事場での愚痴を2階に上がってきて喋りまくる、そんな日が毎日続いたら、頭もおかしくなってしまいます。

ある日、母親から「お母さんと兄ちゃんと孝雄の三人で暮らそうか」と言われた、私は大賛成だった、悪夢から解放されて暗闇から光がさした気分になった、平穏な暮らしが欲しくて仕方がなかった、夢の世界に行ける気がした。しかし、結局離婚の話は無くなり、また子供たちの為に母親が我慢をする日々が続いた、子供の為を思ったら、両親がいる方が良いと思い、踏みとどまったんだと思う。

摂津の家では猫を飼っていた、最初の猫はシャム猫のオスだった、名前は「ポチ」何を食べさせたらいいのか分からなかった、人間が食べる「サバの水煮」のカン詰や、チクワなんかを食べさせていた、シャム猫なのに体重が8キロもあった、顔の先端が黒いので動物図鑑で見た「フルーツコウモリ」みたいだった。オス猫は、縄張りなどが関係するのか2年程でいなくなる、ポチが居なくなってしまった時はショックだった、粘土でポチが好きだったチクワや味付け海苔を作って、勉強机の上にお供えした。

運送屋の独身寮に入る前、子犬をもらう事になった、紀州犬とスピッツのミックスだった、落ち着きが無い犬で、うろちょろしていたので名前は「チョロ」猫はポチの他に3匹入れ替わり飼い続けてきたが、犬は初めて。猫に比べてあまりのどんくさい動きに、どうやって接すれば良いのか戸惑ってしまった、猫はセルフで外に出かけるし、気が向いたときに飼い主と遊ぶが、犬は人間が付きっきりにならなければいけない、猫を師匠に育ってきた私にとって、「自分」を強く持っていない犬と接するのは多少抵抗があった。
後藤家に来たチョロは、様々な経験をさせられる事になる、バイクのハンドル部分に手をかけさせ買い物に同行させられたり、湖にボートを浮かべて一緒に乗り込み、途中から泳がされたり「決して虐待ではありません」犬は家族同様なハズだから、当然同じように楽しんでもらう、後藤家の流儀に従い、どんな状況下でも楽しさを見出す力が付いたと思います。

運送屋から畳屋に転職するとき、辞めると言った年の年末まで運送屋を務めることになった、自分の後釜をある程度まで育て継がせるために。12月になった、10日は兄貴の誕生日だった、その日のお昼2時頃に兄貴から電話があった、「今、おかん「母」が調子悪くなったから病院にいてるんや」電話を受けた瞬間、私は「あかん!」と思った、兄貴が「今日実家に帰って来れるか?」と聞いてきたので、仕事を途中で切り上げて実家に向かい、母がひとまず入院している病院に兄の案内で行った。話を聞けば、ここ2~3日吐き気がひどくて家に籠って居たらしい、父は相変わらず酒を飲むしか能がないので、こうなってしまったことの言い訳ばかりをしていた、まあそんなことは分かり切っているので流した。病院に着くと、母がこんな状態になってしまったことを、しきりに謝っていた、その間もトイレに行って吐き気と戦っていた、現在の病院では治療が出来ないので、吹田済生会「川園」に明日転院する事になった。次の日、済生会に付き添いで行った。

病気の原因は「急性腎不全」両方の腎臓が機能していない、血液中の毒素を尿として体外に出せないので「人工透析」が必要になる、母の場合は完全に腎臓が機能しないので、週3回の透析を受けることになった。今まで健康だったのに、ある日突然不自由な暮らしをしなければならない、本人の葛藤は相当大きかっただろうと思う。

くしくも運送屋を辞めて実家に帰ることになっていた事が、後藤家にとって多少幸いな事となった、兄貴と父親は仲良く共存できない、私のように「昔は昔、今は今」と割り切る事が出来ない人だからだ、兄のとる態度は悪いとは思わない、当然だと思う。私は考えが冷酷なのか、「昔どうだったか」よりも「今どうなのか」を考える、これも強烈な親父を見て育った「自己防衛策」なのかもしれない。

母親の入院生活は長引きそうだった、母が一番憂いていた事は、今まで家事も何もかもした事が無い男3人での生活、母は兄と私が揃って見舞いに行ったときに、「こんな事になってしまってごめんなさい!」と、言いそうになった が、私は母が言おうとした瞬間に、何を言うのか察しがついたので、手を前に出して止めた、「今まで家の事を何もしないできた自分たちが悪いんや!」泣き出しそうになっていた母と兄は、突然の私の行動に意表をつかれ、一気に現実と向き合う姿勢に空気を変えられてしまった。泣くのは親の葬式の時だけでいい、その日から私は後藤家の家事を一切引き受ける決意を決めた。

料理と洗濯掃除は自分がやる、兄はほぼ毎日見舞いと、役所や銀行の書類手続きを担当した、本屋に行って料理の本を買った、仕事を終えてスーパーに買い出しに行き、献立を組み立てる、母親が「今日の晩御飯何が食べたい?」と、聞いていた気持ちが分かる気がした、料理は失敗の連続だった、上手くも無いくせに理想だけは高い、小麦粉が多すぎてめちゃくちゃ食感が重たいお好み焼きが出来たり、変な汗が出てしまうほど塩辛い、豚生姜焼きができたり、焼き魚や焼き肉がこんなにも手抜きができる料理だと思ってませんでした、カレーライス⇒カレーうどん⇒カレースープのローテーションも覚えた、冬場はお鍋に限ります!材料刻んで入れるだけ♪ロールキャベツやコロッケにも挑戦しました、揚げ物はタコの唐揚げがあんなにも危険な料理だとは思いませんでした、弾け飛ぶタコと油でガスコンロの周りはメチャクチャになった、仕事を終えてから料理を作るのは本当に大変な作業だ、しかし非日常を日常に変えなければ、大変な事態は一向に良くならない、だから正面から立ち向かう事が大切なのだ。

母は病気と向き合う準備の無いまま、入院生活が長く続いている事に気分が参っていた、食事もとれないまま点滴だけの日々が続いた、いつしか歩くこともできなくなっていた、鹿児島にいる母の弟を一度大阪に呼ぶことになっていた、当時普通の精神状態ではなかった母は、弟が来ることを知り、自分はもう死んでしまうのではないかと、頭がパニックになっていた、このときMRIで脳腫瘍「良性」があることも発覚していた、脳外科の先生に私たち兄弟が呼び出され、色々説明を聞いた、脳幹と小脳の間にゴルフボールぐらいの良性脳腫瘍があった、小脳は運動神経を司る脳で脳幹は様々だが、話をするとか飲み込む時に多少影響を与えそうだ、手術をして取り除くには、あまりにもリスクが大きい、今現在の体力では難しい事と、透析を受けている患者は出血したときに血が止まりにくいからそれだけでも大きなハンデがある、良性腫瘍なのでこのまま経過を見守る方が賢明だと思います。と、医師から言われた。

母の弟夫婦は、面会をして兄弟で家事を分担している話などを聞き、状況を察して鹿児島に帰った、あまりにもあっさり帰ったので、母親も「あれ?」って感じだった、病室もナースステーション横の部屋から4人部屋に移った。

パニックも収まりひと段落だった、同じ日時に透析をしている患者さんと母は姉妹のように仲良くなっていた、ある日私が母のお友達の病室に差し入れを持って行ったとき「兄ちゃんありがとう!看護師にはあれも食べたらあかん、これも食べたらあかんって言われてたまにケンカするんやで」と話してくれた、糖尿も患っているらしく、母よりも食事規制が厳しい、「兄ちゃんちょっと、売店でアイスクリーム2つ買ってきてくれへん、1つは兄ちゃんが食べる分やで!看護師にマークされて買いに行かれへんねん」思わず笑ってしまったが、悪事に手を貸すことにした、アイスクリームを食べながら、母親が歩けなくなった事を話した、おばちゃんは「看護師の言う通りやってたら体が弱ってしまうだけや!何でもいいから食べさせてあげ」

アドバイスを受けて実践することにした「おかん、何か食べてみいひんか?」母は何も食べたくないと言ったが「プリンとか、ゼリー、アイスクリームでもいいし」とりあえず売店で3つとも買ってきた、プリンは食べようとしたがやめた、アイスは少し食べた、看護師さんも「食べれるようになったら元気が出るかもね」と言ってくれていた、次の日もアイスを少し食べた、「おいしい」と言った、だんだん食べることが喜びに変わり始め、どんどん元気になってきた、いつしか母も看護師にマークされる一員となり、仲良し姉妹は悪知恵ばかりを働かせ、看護師達を困らせていた。
この調子で行けば正月には家に帰れる。食べるようになって、歩く練習をして、外泊の手続きをとり、実家に帰れる準備をした。人は希望が見えてくると体の中から元気が湧いてくる、良いサイクルに導くのは1人の努力ではなく、みんながもたらすものだと思った。
待望の外泊が実現となった、正月に家に帰れることを、心から喜んでいた。まだ足元がおぼつかない母親は、壁や柱などに手を付けていないと、体がふわふわして安定しない、それでも家の中では日常やっていた事をやろうとする、ヤカンでお茶を作ったり、洗い物をやろうとしたり...キッチンの方から ゴンッ! と、鈍い音がした、何事かと駆け寄ったら、膝ぐらいの高さの木のテーブルで頭を打っていた、つまずいてバランスを崩しそのままテーブルに額を打ち付けていたので、傷口から血が出ていた、タオルで押さえていたが出血が納まらなず、正月早々、実家から近い摂津医誠会病院へ駆けつけた。

まさか正月早々、病院に行くことになるとは...額を強く打っているので傷口が開いており、押さえているタオルが真っ赤になっていた。受付に行って事情を話した、受付の男の人はめんどくさそうに「少々お待ち下さい」と言い、他の用事をゆっくりとやり始めたので、腹がたって「この状況を見てあんた分からんのか!緊急を要するから頭下げてお願いに来てるんや」
やれば出来るじゃないか!と、心の中で呟いて、外科の先生に取り合ってもらった。
母親にとって透析をやり続けなければならない状況はとても辛い事だった、しかしこの病気が無ければ、私たち兄弟は親孝行をしたのだろうか❓と考える、酒を飲んで仕事の不満を爆発させて喧嘩をし、転職あるいは親戚の会社に拾ってもらう、またケンカをする、そして家に帰って本当にショウモナイグチをわめき散らす。そんな事の繰り返しを0歳から見てきた私と兄は、自分の家が大嫌いだったし、早く働いて家を出たかった。親から離れて1人の人間として社会に自分を認知して欲しいと思った、だからおそらく母親に親孝行をしなかっただろうと思うし、世間一般で言われる(親孝行をしたい時に親はなし)と言っていただろう。とにかく病院から退院した母をあちこち連れ出した、兄と私が別々に何処かへ連れて行くこともあったし、共通の趣味のバイクのイベントなどにも連れて行った、なんと全日本モトクロスを観戦に行った事もある、迷惑なのか喜んでくれているのか分からないですが….

母は自分の事を全く喋らない人だったが、病気をしてから自分の幼少期の事や、鹿児島から大阪に出てきた時の事など色々話すようになった。
家では透析を受けている患者の食事の本を買って参考にしたり、母が病院で言われている事なども参考にして食事を作った、リンとカリュームが透析患者の敵、糖尿の人よりは制限が緩いが、人間は制限されると欲しくなるようで、色々と困った事態も起きた。フルーツやウナギ、肉、海藻類は控えた方が良い、野菜は茹でこぼして使う、水分摂取も制限がある、透析に行く前にミカンをたくさん食べて行ったり、水分をとり過ぎたりして病院の看護師さんに注意されていた、不摂生をしていると透析でドク素を取りきれず、残って顔がむくんだり、血圧が下がり過ぎて動けなくなったりで大変です、私達が注意してもミカンが新たに買い増しされていたり、イタチごっこだった。